◎信ずるという心の度合いが、おかげのあるもなきも我心。
貫く信心から、信心の尊さ、有難さを分からせて頂く信心を身に付けさせて頂いて、間のあたりに神様のこんなに間違いないというような体験を積ませて頂いていくうちに限りなく信ずる力というものは生まれてくる。
昭和五十三年十二月四日 朝の御理解
X御神訓 一、 祈りてみかげのあるもなきも我心なり。
%U和らぎ賀ぶ心でなくて、自分の心、自分の心次第だというわけですね。心一つで全てを創り、心一つで全てを壊すといったようなことにまでなる。そういう意味だと思うです。
%Uここで一番おかげに、問題になってくるのは、例えば美しい心とか、真心。真心を美しい心と、まあ申しますけど。ここでおかげのあるもなきもというのは。神をどれ程信じておるかという心だと思うですね。神は信ずるものを信ずると仰るのですから、信ずる度合いですね。百信じている人もあれば、千も万も信じている人もある。もう絶対とする、絶対信の人も段々あるわけです。
私共の信心を思うてみるとに。合楽に通うて来る程の人ならば、神様を疑ごうておるというのはないようです。と言うて信じ切っておるという人もまた無いようです。これはまあ、私を含めて言えることだとこう思います。
私共のように毎日毎日、それこそリアルな神様の働きの中に居っても厳密に言うと、どうしたことぢゃろうかと、いうような意味のこともあるということです。口では、絶対信を唱えさせて頂きながら、ギリギリのことろはおそらく一生涯、そのことに取り組んで、いよいよ絶対信を創って行くということだと思うんです、ね。
合楽に通うて来る程の人ならば。云うならば、間のあたりに神様を見る感じ。間のあたりに神様の働きを感じずにはおられない。
%1昨日、一昨日、研修の時に話したことでしたけれど。丁度、中近畿の井上先生がお参りになった。それで夕方まで居られたので。もう私が昼から出て来て、研修の時に、もう帰られたかと言うたら、帰った。誰がお送りしたぢゃろかと言うたら。丁度久留米から小森野の高田さんがお参りしておられた。だから小森野の高田さんの車で駅まで送って下さいと言うて送って頂きましたと。いやー、それならトラックぢったろうたいと、私が申しましたら。いえそれが正義先生のいつも乗んなさるような、あの高級者の立派な車でしたとこう言うわけです。そげんことはなかばい。今日はあんた大きなバラで白菜をいっぱいお供えに持って来てあったとですよ。だからトラックぢゃなからにや乗せられんような。だから、そりばってんか、そんな立派な車で来てありましたと言う。
まあ神様のご都合ちゃ有難いな。丁度、家の車は何かに使っとりました。ああ善導寺の御大祭の御用に行っとりましたから。それでそれがちゃっと、帰ろうと言いよんなはっとるところへ、高田さんが立派な車で。自分達もそんな良い車と思ってなかったらしい。
ところが、それがさーっと、ならお願いしますと言うて横ずけされる時には、その立派な高級車であったという。おかげ頂いて有難がいなと。まあそういう事は日々何回も何回もあっとるですね、合楽では。皆さんがご承知の通りです。本当に神様が見てござるの、聞いてござるのと言わずにおれないわけ。
%2丁度今度の月次祭に、最近福岡から、子供さんがまだ二つぐらいでしょうかね。まあいうなら、医者にも見放されて。というのでもう母親の一心です。そのおばあちゃんという方は山口の方ですけれども。もうこの人を助けて頂くなら、私が今日から、ここに修行に上がらせて頂くと言うて、おばあちゃんは弾んでおられるぐらいでした。
%2けどもここでは、お道の教師を志す以外の人がここで修行するといったようなことは出来ませんから、まあ福岡からなら遠いところではないから、日参をなさいと申しましたから。それから毎日日参をする。段々有難い神様だなあということがいろいろと感じられる。
%2それで、どうでも神様を拝みたいと言うので。末永先生か誰かに頼んでから、立派なケース入りのがあるでしょうが。あれを御本部にすぐ注文されたらしいですよ。それで今度の月次祭にここで拝ませて頂いとったのが、それなんですけれども。
%2その晩の月次祭に参って来とられた。私はいつもこれは思うんですけれども。必ず新しいお宮をお供して帰られる時には、必ずお供が付くか、迎えがあるかということですよね。けども、その晩月次祭に参って来てあるのを私は知らなかったんです。そしたら、やっぱりお宮を受けんならんもんですから、月次祭に参って来てあったらしい。月次祭にこうやってお社の御祈念を頂いてからお渡しするからと言うてちゃっと用意して来てあった。
%2それがあなた丁度その、高芝さんところの盛昭さんが参拝をしとった。同じアパートに居るんだそうです。後から聞いたら。もうそれこそ盛昭さんが度々参ってばし来るようにですね。しかもあの福岡の広い中に、そのお宮をお共しょうという時に。同じアパートで顔見知りかなんかぢゃなかろうか。だから英治君か誰かが話してあげたそうですから。あの同じところですからお供さして頂こうと言うて帰らせて頂いた。もういつものことながら恐れ入るねと言うたことでしたよ。
ですから、そういうのを皆さんが毎日見たり聞いたりしているのですから。神様を疑うということはまず無くなっとる訳です。
まあだそれだけぢゃない。本当にこの神様はリアルですからね。もう微に入り細にわたって神様のお働きちゃ恐れ入ると、ね。
%3こんど中近畿の井上先生が見えられて、若先生と末永先生と竹内先生と自分達が行ってお世話になった先生達ばかりが、殆ど半日だったでしょうね。お相手した。その間にいろいろこっちの話を改めて聞く。またあちらの模様を話していかれて。もう本当にあれ以来十二、十三、十四日の三日間講演会の一番最後のお別れのパーティの時に、十四日会というのが発会したんです。
それは、合楽に十三日会というのがあって。所謂、神願成就の日として大変おかげを受けておられるということにあやからせて頂いて。今日が十四日だから、今日を境にこの中近畿でも、十四日会の発会をお願いしますと。泉尾先生にお願いしたらしいですね。
%3それで経費、総てのことは、泉尾にお願いしますと。そんなことがあるかと、先生は大変怒ったように言うとられたけど、内心有難い様な風でした。若先生がそういうあれをするというので、まあ結局泉尾三宅先生が中心になられて、その発会がなされたと。
%3その内容が素晴らしい。その三日間に自分達が頂いた信心を基にしてということにならせて頂いたら。来年が中近畿の百年祭、百年の年にあたるわけです。それでもうご承知のように日本一の教会が沢山あちらにはございますから、大変な大規模な計画がいろいろに立てられとったらしいです。ところが十四日会が発会して、その内容に触れて。
%3例えばパンフレットが出来ていますもん。その内容にこういうことが書いてあるです。泉尾先生の、所謂、願いの信心。合楽の大坪先生は、信心は有難うして、楽しゅうして、しかも愉快にまで高めて行けれる、そういう信心を説かれた。という三日間の内容。それを芯にしての内容。
%3信心が有難うして、楽しゅうして、しかも愉快にまで高めて行けれるんだと、大坪先生は説かれる。その内容をつぶさに、三日間に私共がお話したことを合わせてみるとです。もうこれに尽きるぢゃないかということになったらしいね。だから幾つもの計画が根本から、根底から崩れてしまったという話を聞きました。
まあ最近の信心で言うならば、今塗板に書いてあるのは、それはあんまり素晴らしくまとめてありますから、あれは誰にでん控えて帰れと言うて。今がギリギリの、あれが合楽の信心ですよね。今塗板に掲示してあります。
「ここまでは分かった」とこういうのである。それはもう結局、私共が生神を目指す。所謂、柿の種にでも、というあれである。生神の芽がある。それを云うならば培っていく。それを育てていくということは、もう水の信心、土の信心に極まった。しかもこの信心していきゃ有難うなって、楽しゅうなって、しかも愉快にまでなって行くんだ。
夕べ私はそれを見せて頂いたら、時には愉快になると書いてあったから、時にはぢゃなかばいと言って私が書き直させたんです。時々愉快になったんぢゃなか。もうそれこそ、嬉しゅうして、楽しゅうしてという。そのこと自体がもう愉快なんだ。しかも愉快に信心が出来る。信心というのは、何か陰惨な、じめじめとした、とてもそげな真似は出来んといったような。そして、何と言うでしょうか、修行と言うたら、まあすぐ水を被るとか断食とかというようなイメージがありますけど。合楽では、もう心行一本。家業の行一本に絞らせて頂く。
所謂、日参、教聴、心行、家業の行。ここを徹していくならばもう絶対、日勝り、月勝り、年勝りのおかげが伴のうて来るのだから、もう楽しゅうして、有難うして、愉快に行けれるんだと、ね。
%4昨日、一昨日、稲垣さんが車を買われました。自分の車を、笠さんのところから。それがまだ運転免許を取らん先に買うちゃる訳。それで笠さんがお祓いに。自分が乗ってから、二人で乗ってから、昨日一昨日ここにお祓いを受けに見えられました。
%4その帰る道々だそうです。笠さん、もう自動車の運転ちゃ、ちょっと難ずかしかですねと言うたら。笠さんが言われることがですね。親先生が言われるように、信心にもリズムがあるように、運転にもリズムがありますよち。そのリズムを覚えたら楽ですよ。と言うて、その信心な難かしかと言いよるところへ、スーッと横から入って来た車が九九六六という車ぢゃったげな。
%4一寸、笠さん見てんなさい。私が今、九九のところを通りよる。けれどもこれは、これを修行として頂くならば六六になる、徳になる。と神様が言うてござるごたるですねと言うて。そうです。だからリズムが出るまでですと言いよったら、前の方から、サーッとやって来た車が一二一二という車ぢゃったげな。
%4一二一二という一つのリズムです。もう本当に恐れ入ってしまうと言うて、笠さんと二人で話して帰りましたというお届けが、昨日あったんです。それはまあ皆さんも体験しておられる事でしょうけれども。もうそういうリズムが周辺にいっぱい出来て来てごらんなさい、信心は楽しゅうして、有難うして、しかも愉快にまでね。そこまでは分からせて頂き、分かっておると言うてもです。なら絶対信があるかと問われてみると。サアー何かという時には、サアーどうなるだろうかと思うてみたり。いろいろとそこにやっぱり不惧の念が起こるというところに、疑うてはいないけれど絶対信ではないということになるでしょう。
私は今日は、我心と言うのは、おかげのあるも無きも我心というのは、その信の心がいよいよ絶対に向かって、所謂、生神金光大神に向かっての信を養うて行かねばならないということでございます。
今、中近畿で十四日会が発会した。しかもその芯になるところが、金光様の信心は、とにかく有難いんだ、楽しいんだ、しかも愉快にまでなって行けれるんだと。これはまあ合楽のキャッチフレーズですけれども、それが全教に、本当にそうか、本当にそうだと分かるようになったら、金光教の信心というものはもう大変な勢いで、また発展して行くことでしょうね。
中近畿では、百年、祈念年に向かっていろいろいな大きな企画が立てられておったけれども、三日間の私共の話を総合して。そしてその十四日会の精神というものを、神願成就の為の十三日会に神習って、今日が丁度十四日にあたるから、今日三宅先生を中心にしてそういう発会をしたらどうかということの話が出た時に。それこそ満場一致で、もう大きな拍手の中でそういうことに決まったんです。
これは、私共があちらに居る間にそうでした。それが内容がです。段々内容を検討して行ったら、もういろいろな信心を進めなければならない手立てというものは、もうこれは影の薄いものになってくる。もう金光教の信心はここに絞る以外はない。
それを結論的に、最近の合楽の信心で言うならば、「ここまでは分かった」ということなんです。信心はもう生神を目指こと。生神を育てて行くこと。為には、土の信心、水の信心に極まったと。ここまでは分かったと。分かったんだから、これからは出来る、出来ん別として、いよいよ土の信心、所謂、天地日月の心になること肝要と教祖が仰る信心を、もう身に付けて行く以外はないと腹が決まった。
なら決まってもです。厳密に言うて、神様を疑う余地は、更々無いのだけれども。やはり、いよいよ自分の何かに直面した時にです、はたしてどう信じた言動と言うか。言うこと、行なうことの中にそれが表わされるか。それが、おかげは我心というのであります。
百信ずれば百のおかげ、千も万も信ずれば千も万も真おかげになるということなのですから。いよいよその真の力というものを私共の謂わば信心の力と頂て頂いていくおかげを頂かねばいけません。
%5昨日は梅の実会でした。それで、昨日は御大祭でもありましたから、時間が私が一寸送れましたので。天地に響くというあのスライドを皆で。私は昨日善導寺からお祭りが済んでからすぐ帰りましたら、帰って良かったと思った。もう岡山から参って来てました。山口から来てました。佐賀から来てました。熊本から来てました。もうとにかく、昨日は遠隔地から一杯、私の帰りを待ち兼ねておられるような状態のところに丁度帰って来たんです。それからその方達も、皆一緒にスライド写真を見せて頂いて、大変感動を受けて帰られた。
%5梅の実会の方達も終わって、もうここの研修半ばでしたから。三時半頃からでしたけど、また暫くここでお話を聞いて頂きました中にです。本当にひとつ、日参、教聴、そして心行、家業の行ということがいかに大事かと。しかも私が皆に発表を。スライドを見てどういうふうに感じられたかということを皆さんに聞かして頂きましたけれども。
%5ここで発表は一人二人でしたけれども。帰りがけここでお届けをして帰られた人達は皆同じようなことを言うて帰った。あの野口さんのところの嫁御さん、暁子さんと言いますが。もう私は親先生に、ああいう日々おご苦労を掛けておることは、まあパーッとは知っとったばってん、ああいう日々が繰り返されとる。合楽で繰り返されとるということは。もう今日は、大変おかげを頂いたというて、涙を流してからお届けして帰りました。
これはもうごけな信心ぢゃいかんと、しみじみ思いましたというように。梅の実会の方達が皆そんな感じで帰らせて頂いたようでした。だから私はそこでね。なら結局有難うなり、楽しくなるという手立てがいるよ。と言うて傍に光昭が居りましたから、光昭に話をさせて頂きました。
%6昨日ね、私は午後の奉仕の時に、ここを一寸立たせて頂いて。喉が乾いて仕様がなかったから、一寸久しぶりで表に出てみろうと思ってラムネを飲もうと思うてね。あそこの自動販売機があるでしょう。あそこま出でらせて頂いた。それで光昭がここに座らせて頂ておりましたから、お金を二、三百円持っておいでと言うたから付いてきました。梶原先生と二人で。あそこでラムネが無かったから、他の物を頂いたんですけれども。そしてすぐ帰ってきた。そしてここで奉仕させてもらった。
%6そしたら昨日ここで光昭がお届けをするのにです。もうあれ以来感動が起こっておるのが、まあだ今に感動し続けとると言うのです。私と一緒にラムネ飲みに行った。それだけのことで。しかも翌る日までも、また改めてお礼を申し上げねばならない程に、おかげを頂いたとこう言うのです。
%6どあしてそんなに感動が湧くだろうと、皆思うかと私が言うた。信心がもう楽しゅうして、有難うして、朝起きが出来ない、朝起きがこの頃楽しゅうなってきた。それはね、例えばいくらも、いろんな修行を神様に誓分を書いとる。誓いのお届けをさしてもらうとるその中に。門外不出というのがあります。
%6外へ出ませんと、ところが親先生のお供をさせて頂いて、それこそ、門の一寸一歩外へ出ただけだけれど。それがもう有難うして、有難うしてこたえんぢゃった。そして今日はまた、楽の御用を言われとりますから、善導寺まで出させて頂く事が出来るという事を思うたら。もう門外不出という修行が、こんなにも有難いもんであろうかという位に、有難うなったと言ってるんです、ね。修行しよらんなら、修行も貫きよらなければ、そういう喜びというものは生まれて来ないです。そういう喜びが、ひとつの喜びの基になって、信心が楽しゅうなって来る。修行が有難うなって来るのですよね。
%7H*私がもう、一生風呂にだん入らん、もう入ろうとは思わなかったです。朝晩水行するからもうそげん入らんでん良かった。もう一生入らんつもりであった。ところがあの時分に、石鹸のお供えが次々とある。タオルのお供えが次々あるです。最後にはね、あの思いも掛けない、風呂桶のお供えがあったです。新しい。北野の桶屋さんが持って来ました。誰々さんからここへ届けてくれということであった。というてその風呂のお届けをさせて頂ておったら、云うならば『風呂に入らんという修行はもう今日ぎり。』と神様から頂いた。まあその風呂が沸いた時に、私はその風呂に渕にしがみついて、本当に泣いてお礼を申し上げました。
%7H*もう風呂に入れると云うことのなんと素晴らしいこと。そういう修行をしとらなければね。それこそ涙がこぼれるようなの有難さは生まれてこない。もうそれ以来、お風呂に入るということは極楽であり、本当にお風呂の中で有難い、私がいろいろ頂くのはそれ以来です、ね。
だからね。お互いの信心というものが、修行というものがね。そういう、それはそれぞれによって違いましょうけれども。些細なことであっても、それを貫かせてもらうというような信心からしか。それこそたぎる様な喜びというような。信心は楽修して有難うしてという、その基になるようなものが生まれないです。
おかげを頂く為に、いつまで参らんなんぢゃろうかというごたる気持ちしか起らんです。日参は、ああお金も随分掛かる。というようなものが頭に、先に浮かぶようになる。それが結局、神を信ずるという信心に、大変な障害があると云うことなんです。
只今申しますような、貫く信心からです。その信心のいよいよ尊さ、有難さを分からせて頂く信心を身に付けさせて頂いて、そして間のあたりに神様のこんなに間違いないというような体験をです、積ませて頂いていくうちにです。限りなく信ずる力というものは生まれてくるんだとこう思うんです。
と言うて、ならいよいよどれだけ信じておるかというと。疑ごうちゃおらんけど、いよいよ以て確信というところまでは出来ん。まあそういう時に、信心にも度胸がいるもんのと。度胸がいると言うことは、既にそれだけしか信じてないということなんですよ。本当は。
これ程間違いない神様だからと、度胸を出すだけのことです。これは私を含めてなんです。今日の御理解は。先生はもう絶対信じちゃろうと。そうぢゃないということです。
只神様の素晴らしいお働きと、そういうリズムの中にあっても、そうですけれども。それをいよいよ以て我心、おかげの頂ける我心。それを今日は、信の心、信ずるという心の度合いということを聞いて頂いたですよね。どうぞ。